先月一緒に『銀魂』に行った母(剛ファンの銀魂アニメファン)からリピートのお誘いが。
行きますよ、もちろん。私は5回目ですけども。
座席について、スクリーンに対して右側がいいとのリクエスト。
理由を聞くと、
「だって最後の剛くん、倒れたとき足を右側に向けてたじゃない」
そうだっけ?ていうか
そ の 発 想 は な か っ た 。
お母様、右側から見ても高杉様の着物の中身は見えませんよ。
もちろん、右側を押さえましたけども。
そんな母は夏生くんと荒太と天魔ぼっちゃんとエリザベスを愛でています。
■映画『銀魂』(3,4,5回目) ~死なない3人、捉われない3人~
5回も見といて今更感想とかあれですが、面白かったです。
福田作品らしく役者さんが全員魅力的で、『銀魂』らしく登場人物が全員魅力的。
そんな両者の魅力が上手く噛み合っていたように思います。
何度見ても声に出して笑ってしまうのは、千年に一度の神楽と新八の胸パチとザクと悪魔の実とムロパンチと風の谷の彼女とゴリさんのフェイドアウト。
キャストは皆さん本当に素晴らしく、特に全てがかかっていた主演の小栗旬さんは本当に銀さんでした。
銀さんは原作漫画でも自由人というポーズをとりつつ、泥臭く色々なものを抱えて生きていますが(『銀魂』のキャラは全員そうですよね)、今回の映画も、過去の思い出に現在の生活、新八と神楽、そして今まで出会ってきた全ての人達に江戸という町と、とにかく多くのものを背負っている男として描かれていました。
「俺には大切なものが出来すぎた」という台詞はそんな自分の業を受け入れる諦観も感じてグっときます。
前から思ってましたが、小栗くんって彼が演じたキャラクターを観客が好きになるような、その役を魅力的にするお芝居をしますよね。実写請負人といわれるのが分かる気がします。(とはいえ私が一番好きな小栗くんの主演映画はオリジナル脚本の『キサラギ』です…)
小栗銀さんを書きましたが、新八もお妙さんも、真選組も鬼兵隊も、鍛冶屋兄妹も、ムロさんも、みなさんそれぞれ魅力的でした。
そんな中でも私がなんとなく気になったのは、 高杉と桂と神楽です。
それは私が剛ファンで、原作ではヅラ(+さっちゃん)びいきで、同郷の千年ちゃんを愛でているからなのかと、私って素直やなあと思ったのですが、改めて考えてちょっと思ったのは、回想シーン以外で笑顔と感情がリンクしていたのがこの3人だったからかもしれません。
新八神楽の啖呵を背負った銀さんのニカっとか、高杉を止めて大団円とはいかなかった最後の笑顔とか、お妙ちゃんのアルカイックスマイルとか、目が笑っていないゴリさんのストーカー笑いとか、観客を笑わせる為の新八・ムロさん・佐藤さんのコントじゃなくて、キャラクターの自然な笑顔。
福田監督のコメディは、キャラが笑顔で笑わせるタイプではなく、真顔やウンザリ顔や呆れ顔でボケたりつっこんだりするタイプの笑いで、この映画『銀魂』もそうでした。
登場人物があまり笑わない。
だから、嘲笑、泰然、純真とそれぞれ意味は違えど、自分の感情からなる笑顔を見せていたこの3人のキャラクターが、私の中でちょっと違って見えたのかも知れません。
もう一つ、この3人に共通していたのは、キャラが纏うちょっと異質な空気感。
あえていうなら自分が死ぬと思ってなさそうな感じ。
撃たれても死なず鬼兵隊に捕まっても呑気にギャグかましてる神楽に、颯爽と実は生きてましたな桂に、部下が銀さんにあんなことしても自分は絶対殺されない高杉。
死ぬと思っていないということは生に執着していないと同じことで、どこか世界から浮いてるんですよね。
新八が鬼兵隊に囲まれピンチなのに縛られたまま焦る様子のない神楽に(それ絶対隙間から手抜けるやろ)、銀さんが紅桜と死闘を繰り広げるのを別世界の出来事のように眺める高杉と桂(桂は助太刀に行かなくてよかったのか)。
新八や銀さんが、色々なものを背負って江戸という町で生きる市井の人たちの象徴だとすると、この3人は、町や生活に捉われていないのかもしれないなと、そんなことを思ってみたり。
きっと、この実写版映画では描かれなかった別の何かに、それぞれ捉われていているんでしょうけれど。
【平癒祈念】